冷たい熱帯魚(10 園子温)

冷たい熱帯魚』(10 園子温

「実話を元にしている」ことを字幕によって執拗に強調する編集は、これ見よがしに富士山を映したカットが挟まれることで頂点に達する。「これから実話を演じます」とても言わんばかりだ。
「ボディを透明にした」吉田(諏訪太郎)の失踪を怪しんだ弟分のヤクザ(三浦誠巳)を騙して追い返すため、細部に至るまで隙のない嘘がつけるよう、村田夫妻(でんでん、黒沢あすか)、弁護士(渡辺哲)の指導のもと何度も社本(吹越満)が練習させられるシーンは、いくらか実話としての要素をブラックユーモアも交えつつ気にしている。
映画は社本が車内で村田夫妻や妻(神楽坂恵)の眼を離れ眠りにつく間に変化する。彼らの犯行を裏で支えていただろう弁護士のボディが透明にされてから、実話としてのディテールをほぼ意図的に消失していく。映画からヤクザ、弁護士のような第三者たちが消え(この映画のように渡辺哲を演出できた映画が最近どれくらいあるか?)、嫌になるほどわかりやすく図式的な関係での対立がしばらく続く。ついには村田までも透明にされてしまうことで、映画を実話として支えていた要素は消えてしまう(写真で見るに、実際の妻は黒沢あすかほど妖艶な女性ではない)。
熱帯魚店から娘を連れ出してから、実話とは異なる時間の開始が画面上にカウントされる。映画の核となっていた村田・弁護士らが消失してしまい、映画そのものがほとんど自らを支える基盤を失ってしまったかのように、わかりやすく暴走する社本による父親的なふるまいがはじまる。だがそれも自らの言う通りにならない人間を殴る程度の、幼い態度でしかない。
紀子の食卓』『愛のむきだし』でも血の「赤」は、強烈な意味を与えた。それは社本のいう「痛み」であり、男たちが無菌状態へ逃れようとする人々(主に家族)の幻想を打ち破る重要な手段だった。しかし『冷たい熱帯魚』では村田夫妻という血の色に対し、これまでの園子温の映画とは異なり意味など受け取らない人物がいる。一方で今まで同様強烈な意味を受け取ってしまう社本がいる。社本の「父」として振舞おうという狂気は、園の映画でなら当たり前の行動なのだが、彼は『紀子』の父のようには事態を収拾出来ない。なぜなら単純に、既に「痛み」の意味など関係無く血肉を見過ぎているからだ。血肉に意味を見いだそうとしない人物の存在が余程影響したのか、社本は「赤」の説得力をうまく使えず、無菌状態からの解放どころか、自らウイルスと化して映画内を暴走し、次々とディテールを破壊してしまう。思い出すのはアンジェイ・ズラウスキーの『ポゼッション』の終盤だ。肉体の解体や流血、生理的な衝迫感を煽る暴力のみが描写され、しかしそこに人間的なドラマも、ジャンル映画としての物語的な土台も失っている。
ラスト、黒沢あすかも刺し、血にまみれた社本のもとへ訪れた刑事たちの乗ってきた車に(ところでこの刑事たちも不意に退場する)、ぼんやりと家で殴られて気絶しているはずの妻と娘らしき残像が見えた……と思いきや、どうも本当に二人は車にいた(なぜ警察が?)。目の前で義理の母を刺し、自らも刺してきた父親に「痛い!」「生きたいよ!」という娘の率直な反応をポジティブに受け止めたとしても、自殺した彼への「やっとくたばりやがったな、クソ親父!」は文字通り捉えるべきじゃないか。当たり前だが社本の「刺す」という行動は家族を説得するには常軌を逸してしまっている。死の直前に発した彼の言葉「人生は痛い」は彼女に伝わるものか?
登場する女性は妻や娘も含め全員胸元か、太ももを露出し、キネマ旬報星取表で藤井仁子が指摘しているように「売女」としてしか扱われていない。人間として信用されていない。それを「闇を描いた」と評価するほどのものなのか? 
『ポゼッション』、パゾリーニ『ソドムの市』同様、救いの無い破壊行為を見せられても「それをやってはお終い」としか言いようが無い。作家としての自殺行為を思わせる。
(中山)

※ 2月13日修正