スプリング・フィーバー  ロウ・イエ監督インタビュー

 三ヶ月ぶりの更新になります。
 次号にて全文掲載予定のロウ・イエ監督インタビューを一部分掲載いたします。現在準備中のWEBサイトにも掲載予定です。

 

来日中の婁除エ(ロウ・イエ)監督に取材する機会をいただいた。11月6日より日本でも公開される『スプリング・フィーバー』(09年の東京フィルメックスにて『春風沈酔の夜』の題で上映)は前作『天安門、恋人たち』のカンヌ映画祭上映後に受けた製作・上映活動禁止の5年間のなかつくられた作品だ。初めて家庭用のビデオカメラを使い、低予算で製作された本作は、いま日本国内で製作されているインディペンデント映画とも通じうる要素があり、昨今の日本映画の状況に意識のある人にとっても非常に重要な作品だ。『スプリング・フィーバー』を中心に、インタビューをおこなった。
(来年発行予定のDVU三号にて全文掲載)


(撮影:高橋哲也)

―― 『スプリング・フィーバー』(09年)を見ての第一印象ですが、まず5年間の製作禁止といった背景とは関係なく、青春映画として観ることのできる作品だと思いました。いずれはこのような小規模の作品の製作を考えていたのでしょうか?


ロウ・イエ:『天安門、恋人たち』(06年)のときは舞台背景となる80年代を撮るならばフィルムがふさわしいと判断しましたが、『パープル・バタフライ』(03年)の頃から小型のDVカメラで撮影してみたいと思っていました。今回やっとチャンスがあって撮ることができたのです。


―― 5年間の映画製作・上映禁止が決まってから、作品の方向性は変化しましたか?


ロウ・イエ:この作品を撮るべきか撮らざるべきか、スタッフ・キャストの間で議論しましたが、内容的にはほとんど変更していません。


―― 中国国内で作品として認められ、かつ今回のような自分の力で大半をコントロール可能な規模の作品を製作するのは困難なことでしょうか?


ロウ・イエ:最近の中国の若者の間では、小型のDVカメラを用いて、ひとりで自分の身の回りのことを撮る活動があります。たとえば王兵ワン・ビン)の『鉄西区』(03年)はご覧になりましたか? 彼とは『鉄西区』を撮ったあとで知り合いましたが、好きな作品です。徐童(シュー・トン)の『麦収』(08年)も見ましたが、とても良いですね。彼らはごく低予算で作品を撮っている。ただし、どちらもちゃんとした撮影隊をつくっての映画では無く、電影局の許可も勿論ありません。【注】


―― (「映画芸術」430号にて掲載された荒井晴彦青山真治監督との対談を拝読しましたが)手持ちでの撮影、オートフォーカスの使用にも係わらず、作品を弛緩したものにさせないために、カメラマン(ツアン・チアン)を含め編集が三名もいます。


ロウ・イエ:今回はカメラのオートフォーカスを用いての撮影でしたが、非常に難しかったですね。小型なので手振れがかなり激しい。これはより大きな機材での手振れとは異なるものです。この手振れを撮影でどのようにコントロールするかが厳しい。カメラマンも苦労したと思います。


―― 音響についてはどのように考えられていましたか?


ロウ・イエ:基本的に生の音を拾っているのですが、一部分だけほとんど聞こえないところがあったので、それはポストプロダクションの段階で入れました。普通カメラのほうに多くスタッフを配置するのですが、この作品ではきちんと音を拾うために5〜6人録音にスタッフがつきました。
映画館の中で熱を出すような雰囲気にしたいんです。いま非常に残念なことに、多くの人が映画を映画館に見に行きません。それはとても惜しい、もったいないことです。映画館のなかでしか味わえない、独特の音というものがあり、それはDVDで見ていてはわからない。そのためにも音を拾うことにはかなり神経を注いでいます。


―― 役者へはどのように指導したのでしょうか?


ロウ・イエ:基本的に演技指導はせず、自由に自分の演技を発揮させられるようにしています。たとえば屋内の撮影があるとします。「さあ、ここは君たちの部屋なんだから、自由にやってほしい。カメラも照明も全然気にせず動いてくれ。ここで君たちはこれから生活をしていくんだから。」
撮影位置の指定も一切しません。カメラマンにとっては大変なことでしょうが、決して演技の邪魔にならないように言っています。自分たちが脚本に書いた、このように撮りたいと思うものが撮れるまで、カメラマンを感動させられるような演技になるまで、自由にやってもらうのです。


―― 今回はインタビューの機会をいただきありがとうございます。


ところであなたがたはいつ一本目の作品を撮られるのですか? なるべく早く撮りはじめたほうがいいですよ。いまは以前のような大掛かりな機材が必要というわけではありません。簡単だからすぐ撮れるじゃないですか。




【注】 鉄西区瀋陽の工業地帯「鉄西区」に関する第一部「工場」、第二部「街」、第三部「鉄路」、計9時間5分にわたるドキュメンタリー。2003年の山形国際ドキュメンタリー映画祭など日本国内でも度々上映されている。ワン・ビン(1967〜)は他に『鳳鳴(フォンミン)―中国の記憶』(07)、オムニバス映画『世界の現状』の一編『暴虐工廠』(08年)など監督している。
麦収:北京の床屋で働く風俗嬢たちの日々をあつかったドキュメンタリー。日本では中国インディペンデント映画祭2009にて『収穫』の題で上映。シュー・トン(1965〜)は本作が初監督作品。長編第二作目は『算命』(09年)。



ロウ・イエ:1965年劇団員の両親のもと、上海に生まれる。85年に北京電影学院映画学科監督科入学。卒業製作映画となった『デッド・エンド 最後の恋人』(94)にてマンハイム・ハイデルバーグ映画祭監督賞を受賞。 95年、ほかの第六世代の監督らと共にテレビ映画のプロジェクト「スーパーシティ・プロジェクト」を企画。若手に撮る機会を与えつつ、彼自身もテレビ用長編映画『DON'T BE YOUNG』(危情少女)(95)を手がける。 98年、自らの会社ドリーム・ファクトリーを設立。中国初のインディーズ映画製作会社となる。長編劇映画2作目となる『ふたりの人魚』(00)は中国国内で上映を禁止されながらも、ロッテルダム映画祭、TOKYO FILMeX2000でグランプリを獲得。続く『パープル・バタフライ』(03)ではチャン・ツィイー仲村トオルらを起用し、カンヌ国際映画祭コンペティション部門に正式出品された。 89年の天安門事件にまつわる出来事を扱った『天安門 恋人たち』(06)は、2006年カンヌ国際映画祭で上映された結果、5年間の映画製作・上映禁止処分となる。禁止処分の最中に、中国では未だタブー視されている同性愛を描いた本作『スプリング・フィーバー』は、第62回カンヌ国際映画祭脚本賞を受賞した。現在、パリ郊外を舞台にした新作『Hua(Flower/仮題)』を製作中。プロデューサーは09年カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した『アンプロフェット』のローランヌ・ブラショ、主演に同作品でアラブ青年を演じたタヒール・マサムが起用されている。 (『スプリング・フィーバー』公式WEB、プレス資料参照)


(2010年10月22日 アップリンクにて 
取材:滝本龍・高橋哲也・中山洋孝 構成:中山洋孝)


場面写真提供:アップリンク


スプリング・フィーバー
監督:ロウ・イエ  脚本:メイ・フォン
プロデューサー:ナイ・アン シルヴァン・ブリュシュテイン 
撮影:ツアン・チアン  美術:ボン・シャオイン 
編集:ロビン・ウェン ツアン・チアン フローレンス・ブレッソン
音楽:ベイマン・ヤズダニアン
出演:チン・ハオ チェン・スーチョン タン・ジュオ 

11月6日(土)より渋谷シネマライズほか全国順次ロードショー  
公式サイト http://www.uplink.co.jp/springfever/
http://ameblo.jp/springfever-jp/